「川まつり」の達人に聞く!
平成18年11月7日、大木まちづくりセンターにて、川まつりを実際に行っている地区の方々が集まり、様々な意見の述べていただきました。地域、年代ごとに色々なカタチに変化しつづけているようです。しかし、後継者の問題、堀とのかかわり方などによって、風前の灯火となっているのも事実です。
「子どもの水難事故をなくす意味が込められていた」
石川隆文さん(堀と自然を守る会 会長)
昔は「堀に水がきた」ときに各家庭で川まつりをやっていました。「いわお」がある家庭はよくやっていましたね。「つと」の中には、「カンコロ」、「おごくさん」を献上し、当時は子どもたちが中心となって飾りを立てていました。子どもの水難事故防止の意味が強いから、子どもがいる家庭ではやっていましたが、子どもが大きくなるとやめていたようです。当時は生活には欠かせない大切な水なので、堀を汚さないように心がけていました。しかし生活が便利になるとともに堀の汚れが目立ち、学校にはプールが出来て、次第に川まつりは消えていったと思います。
「川まつりでみんながつながっていた」
井上宇一朗さん(牟田地区)
川まつりは私が小学校のときからありました。昔は各家で竹やぶの竹をとって「お飾り」をつくっていました。今はお飾り1本だけですが、昔は3本組んでいました。青年団でこの行事をうけもち、3人の青年団のメンバーが泳いでお飾りを立てていました。当時は年に1人か2人は堀や「馬洗い場」で亡くなっていましたので、川まつりは子供の水難事故の防止が主な目的でしたね。昔は神主さんをやとって、祈祷した米でおにぎりを作り、各家庭に1個づつ用意して、ほとんどの家がおにぎりをいただきに来たものです。今は区全体でしているという意識さえも薄れてきていますね。
「住民の願いが川まつりというカタチに」
久良木直文さん(侍島下地区)
川まつりは昭和20年代〜30年代に各家庭でさかんにやっていたようです。地域の伝統的な文化であり、祭りという認識もありますが、もっと素朴なものではなかろうかと考えています。つまり、当時は堀が私たちの生活に大変密接にかかわっており、農業用水の確保、水難事故に合わないようにとの住民の願いがカタチになったと思います。節目節目の用水の手入れの打ち上げのひとつとして、農事組合長の家で川まつりをやってご苦労会をしていました。春は麦を植える前に堀の「ゴミ上げ」をした後や、冬は「いだうえ」前にも行なっていたようです。さらに、五穀豊穣、共同体のコミュニケーションの役割を果たしていました。手先の器用なものがお飾りを作り、女性がごはんを炊いて案内していました。昔はおにぎりをもらえるので必ず参加していました。今は目的そのものが変わってきたようです。カタチばかりが先行して、芸術品みたいにキレイなつくりになっている。なぜ鰹節をいれるのかもわかりません。また、隣組でおこなうようになったのも最近ではないでしょうか。今は藁を確保することははじめなければならないという苦労があります。川まつりを受け継いでいくためには、子どもたちを中心にやっていくことが大切です。たとえば、プール開きのときに川まつりをやるとか、新しい川まつりのカタチを見出すことも大切ですね。
「飲めるほどきれいな堀の水」
野口秀文さん(吉祥地区)
吉祥地区ではおしゃか様と同じに寺総代が行うことになっています。「あまちゃんぶ」といっしょに札を入れて水神さんへ流しています。
昔は各家庭にいがわがあり、飲むことができるほどきれいな水でした。堀は農業用水、漁業、運輸、防災という生活に欠かせない役割があり、馬洗い場は子どもたちの遊びの場でもありました。そしてそこに水難防止を願うために「あまちゃんぶ」といっしょにたっていました。
「今はコミュニケーションの場」
堀田恭嗣さん(堀田地区)
昔は隣組単位でやっていました。今は自分たちの隣組だけでやってます。昔は堀でよく泳いでいると、「河童からさらわれるぞー」とよくいわれたものです。今でも私たちが住んでいる隣組のコミュニケーションの場になっています。